写真家・山内悠さんの森のギャラリートークショー
週末は、耶馬溪のバルンバルンの森で開催されている「anthocyanの森」というイベントに行ってきました。
参加した写真家・山内悠さんの「いま此処にある」トークショーについて、私が心に残った話を、解釈が少し違うかもしれないけど、書いていこうと思います。
まとまるかな…
山内悠さんは、富士山で5ヶ月も開けてある山小屋(通常2ヶ月だそう)にスタッフとして滞在しながら、何年も地上3,000メートルの雲の上からみる写真を撮られています。
富士山から外を見ると、大きな雲の隙間から、東京という街の明かりが見える。
富士山から内をみると、壮大な山の斜面から、残っている雪やでこぼこした岩が見える。
そして、そこに太陽が昇る。
東北の震災があって「夜明け」という写真集をたくさんの人にみてもらいたい。そう思うようになり、そのため、自分が写真を撮り続けている意味に疑問をもちながらも、その意味を伝えるために各地で写真展の巡業しているそうです。
私が一番印象に残っている話は、〝生(せい)〟について。
命が生まれる時には、いろんな出会いや偶然が重なって、この新しい命が生まれるけれど、それらは元々つながっているんだと想い、生命の根底は〝光〟だと思う。
微粒子があって、そこから派生していく光のそれぞれが命。
と、話されていました。
また、山開き前の雪に埋もれた山小屋の雪かきから始まる、過酷な富士山での生活を何年も経験し、下山して東京の新宿でネガをもらう時に自分の存在に気づくのです。
自分は地球という宇宙にある大きな惑星の「此処にある」と。
それから、あるきっかけがあり屋久島の森の中に滞在して写真を撮り続けことになります。
夜の森をヘッドライトを付けて歩き続けると、自分は森に〝恐怖〟を感じ、その〝恐怖〟を切り出しているんだと言います。
そして、自分が住む長野県の八ヶ岳の山奥で、「チェーンソーの刃に指を入れたら切れるってわかってるけど、ふと入れてみたくなる時があるんだよね」と近所のおじさんが言った言葉は、今の世の中〝生〟を感じることが少なくて、だから、アメリカのトランプ氏やフィリピンのドュテルテ氏、安部首相もそうかも、のように、世界は刺激を求めているのではないかな…と。
私は、山内悠さんが、一年の約半分は富士山、数ヶ月は屋久島の森、そして住み家である八ヶ岳の山奥という場所で、〝生〟というものに気づき、自分がそこにあるという感覚を求め写真を撮り続けているんじゃないかな…と感じました。違うかもしれないけど。
トークショーの終盤では、最近モンゴルの遊牧民のくらしや思考に出合い、彼らを撮り続けているという話も興味深かったのですが、私はイレギュラー案件があり退室することになり、どう締めくくられたかを知ることもできなくて、どういう話が続いたのかも気になります。
その後も山内悠さんに会うこともなく、バルンバルンの森を後にしてしまったことが、私の心に少ししこりを残しています。
光を〝生〟と感じ、山での経験で〝命〟を感じ生きている山内悠さんは、
新宿で感じた、いま自分が此処にあるという感覚と向き合い続けているのかな…
うーん、でも、イベント自体が始まったときに山内悠さんと気付かず(失礼w)雑談したのですが、あのひょうひょうとした雰囲気からは何も読み取れなかったし
「そんな深読みしてたんやー?難しいやつやなー、わっはは!」と、
笑い飛ばされそうですが…笑
問えなかった分、写真で感じとれるといいかもしれないな…
記憶をたどって書いているので、想いの受け止め方が違うところもあると思うけど、〝生〟の感じ方や写真を撮る意味を問いながら、写真家としてあり続けている話の中で、私自身、自分の見方を考える機会を得た気がします。
感じ方ってひとそれぞれでおもしろいな。
山内悠さんは関西弁でひょうひょうとした雰囲気があるんだけど、
写真のことを話すスピードや写真への想いは、夜の森にとても似合っているなぁと思いました。